嵐山町にある武蔵嵐山(むさしらんざん)という駅名を初めて聞いた人のなかには、京都の嵐山(あらしやま)とどんな関係があるのかと、思う人も多いだろう。ちなみに武蔵嵐山が景勝地として知られるようになったことから駅名になり、町名も嵐山町となった。11月の休日、同駅で下車して徒歩で嵐山渓谷を訪れ、帰りに、源頼朝に仕えた有名な武将、畠山重忠の館があったと伝えられる菅谷館跡に立ち寄った。
小京都とも言われる小川町から続く槻川(つきかわ)にかかる槻川橋まで約30分歩いた。温浴飲食施設の平成楼がそばにある場所で、嵐山渓谷のある上流側を見渡すと、広い河原や両岸に連なる樹林の景色は穏やかで心地よい。武蔵嵐山の名付け親で、日比谷公園などの設計で知られる林学者の本多静六は、ここからの眺めが京都の嵐山に似ていると感嘆したという。81年前の昭和3年の秋のこと。そのときは、むさしあらしやまと呼んだそうだ。河原は今、キャンプ場になっており、訪れた日も多くの観光客でにぎわっていた。
さらに15分ほど里や林を歩くと、嵐山渓谷のビューポイントである塩沢冠水橋に出た。増水すると橋が水におおわれることからこの名前がついた徒歩専用の小さな橋だが、清流と周りを彩る紅葉の樹林が美しい。
周辺は県民の寄付で取得された「みどりのトラスト」保全地で、与謝野晶子がこの地で詠んだ短歌の記念碑もある。
「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち並びたる 山のしののめ」
あたりにはアカマツも多い。
帰路に立ち寄った菅谷館跡(菅谷は地名)は、約13万平方bと広い。館などのあった区画である郭(くるわ)がいくつもあり、それを囲む空堀と土塁が樹林のなかに保全され、静寂につつまれている
畠山重忠は、源平盛衰記が、一の谷の戦いで、愛馬を背負って坂を下ったと伝えた、忠義を重んじる勇猛な坂東武者の代表的な人物の一人。かつて、畑和(はた やわら、故人)は県知事時代に作詞した重忠節で「菅谷館は苔むせど 坂東武者のかがみぞと 面影照らす峯の月」と謳った。
館跡に建つ重忠像は、烏帽子をかぶった直垂(ひたたり)、袴姿。静御前の舞を銅拍子で伴奏した、芸術も愛した重忠らしい。ここには県立嵐山史跡の博物館があり、比企地方の中世の城郭跡の出土品などを展示している。坂東武者の時代に思いをはせることができる。
(周防 洋(すおう・よう) 志木市在住)
写真
嵐山渓谷
菅谷館跡の重忠像
提供:東上沿線新聞